十代でわたしがモルモン教に入ったとき,誰かが,わたしは自分の身の回りを見て一番規則の多い教会を探してそこに入ったと、暗に示唆して言いました。それは真実ではありませんでしたが,規則があることはわたしを安心させてくれ,友達もそのことを知っていました。17歳の時に悪い選択の結果がどういうものであるのかをすでに経験していたからです。不道徳な行為によって自分の人生をだめにしている友達たちを見て,道徳観念の欠けている生活はしたくないと思いました。

モルモン教でない人たちや,今はモルモン教でなくなってしまった人たちと話していて,規則のことがよく話題になります。多くの人たちはモルモン教にはたくさんの規則があると聞いています。もっと驚くべきことには,モルモン教がそれらすべての規則が好きだと聞いていることです。なぜでしょう?彼らには何らかの利点があるのでしょうか?それらは人が自分の選択をするのを妨げているのでしょうか?彼らの「好きな」規則というのはどんなものでしょうか?これから神秘的なモルモン教の規則を思いきって見てみたいと思います。(「モルモン教」とはときどき末日聖徒イエス・キリスト教会の教会員について使われるニックネームです。)

 

モルモン教は規則によって救われると思っているのか?

モルモン教がたくさんの規則に従うことによって,天国への道を自分の努力で勝ち得ると考えているというのは作り話です。モルモン教は,  イエス・キリストの贖いによって救われると信じています。それはモルモン書や聖書の中でも何度も言われていますし,教会の幼い子供でもそのことを教えられています。自分では自分の罪を贖うことができないこと,そして,  もしイエス・キリストがその贖いをすることを拒まれていたとしたら,自分たちは救われることができなかったと理解しています。わたしたちは自分の力によって,自分の罪を贖う資格がないのです。

それを前提にしてわたしたちは救われますが,それは自分たちの努力によるのではありません。聖書はしばしば戒めに従うことが永遠に大切であると述べ,もし自分がクリスチャンと言っていながら自分の好き勝手な生き方をしているとしたら,わたしたちは神と共に住むことはできないと明言しています。邪悪なものは神と共に住むことはできません。福音の中では悔い改めが必要なプロセスです。もし規則が全然なければ,わたしたちは悔い改められません。

「もしあなたがたがわたしを愛するならば,わたしの戒めを守るべきである。」(ヨハネ14:15)

「わたしにむかって『主よ,主よ』と言う者が,みな天国にはいるのではなく,ただ,天にいますわが父の御旨を行う者だけが,入るのである。」(マタイ7:21)

もしイエス・キリストを自分の救い主として受け入れると言いながら銀行強盗を働くとしたら,わたしは信仰を公言したことに誠実ではないでしょう。わたしたちの行動は,それが正しい理由でなされたものであれば,自分たちの救い主に対する決意と主への愛を表現することになるのです。キリスト教は人生を変えるものでなければなりません。わたしたちは自分の好んで陥っている罪を神のために喜んで犠牲にしなければなりません。しかし,誤った理由でそれをするならば,そのような行動は何の役にも立ちませんが,それは自分の利己的な理由で行ったもので,イエス・キリストへの愛から来てはいないからです。

これが、ヨハネ14:15でイエスが従順さを愛と結びつけた理由です。

 

これらモルモン教の規則は重荷か?

人々がモルモン教の規則は重荷であると言うとき,わたしがしばしば考えるのは,言葉の使い方を変えた方がよいということです。モルモン教はそれらの規則をモルモン教の規則とは呼びません。彼らはそれらを神の戒めと呼びます。もちろん,キリスト教徒に取っては神の戒めを守ることは特権であって,重荷ではありません。神はわたしたちに非常にたくさんのものをくださり,それと引き換えにわたしたちに望まれることは比較的少しです。神がわたしたちに求められることは,行き当たりばったりのことではありません。モルモン教は一つ一つの戒めには目的があることを知っています。わたしたちはいつもそれが何であるのか知っているとは限りません。ところどころ、またはしばしばついにその目的の意味を突き止めることができます。何であろうと、わたしたちは神を信頼しています。

ですから,モルモン教は規則を重荷とは考えていません。過去のモルモン教の預言者であったエズラ・タフト・ベンソンは次のように述べています。

「従順が邪魔なものでなくなり,わたしたちが自ら追求したいものになる時,その瞬間に神はわたしたちに力を授けてくださいます。」

この引用は,ある規則がなければ楽なのにと考え始める時,わたしをいつも助けてくれています。

わたしは神とイエス・キリストを愛しています。では,神がわたしにするよう求められることが,  どうして嫌なものとなり得るでしょうか?もし、わたしが天父と御子を本当に愛するならば,わたしは御二方が自分に正しいことをするように求められると信頼するでしょう。わたしが神とイエスに対する証を強めれば強めるほど,戒めを守ることがもっと容易になります。

それは重荷ですか?いいえ,それは名誉なことです。

 

これらのすべての規則に従うとクローンのようになってしまうのか?

わたしがこの点を,すなわちたくさんのルールに従っても,わたしたちは皆別の個性を持っているという点を,ソネットをたとえに使って説明するのが好きな方法の一つです。ソネットというのは長い詩で,たくさんの規則があります。

ソネットは,丁度14行からなり,それぞれの行は,弱強五歩格でなければなりません。あなたが書いているソネットのタイプに合わせて,リズムを調整しなければなりません。特定のたとえを使って,そのケースをある特定の方法で構成する必要があります。それは書く本人にとっては貴重な練習となり,新しい考えをするように励まし,普通なら選ばないような言葉を選ばせ,書いている間に一番小さい詳細にも注意を注ぐようにさせてくれます。ソネットを書くには大変な努力が要りますが,シェイクスピアが示してくれたように,よくできた時にはとても力強いものになります。

イエス・キリストの福音はソネットのように考えられます。ソネットを司っている厳格な規則があります。それでも歴史を通じて何百万ものユニークなソネットが作られてきました。モルモン教には多くの規則がある(といってもあなたが思っているほど多くはない)としても,一人一人のモルモン教の会員は完全にユニークです。その構造の中に創造的である余地があり,その構造があるために成熟や力がもたらされます。

その構造にはわたしたちの救いに不可欠のものがあり,わたしたちが悪い選択をすることによる悪い結果から守ってくれます。ある「規則」は戒めです。安息日を聖なるものとし、アルコールを飲まないことなどの戒めがそうです。他のものは常識的な勧めです。教育を受けることなどです。モルモン教の会員たちはその構造の中にとどまっていれば,他の人たちが直面しなければならない非常に多くの難しいチャレンジを回避出来ることに気がついています。その点についてこの記事の後の方で触れます。

規則がないところでは自分で選ぶことができます。会員がソネットのように構造化された生活をしていながら,非常に多様な生活がどのように出来るのかを探検するとても魅力的な方法は,「わたしはモルモンです」というビデオを見て,わたしのような普通のモルモン教の会員たちの何百という履歴書を読むことです。

 

「わたしはモルモンです」という履歴書を読む

わたし自身の「わたしはモルモンです」に載せているプロフィールを読む。

普通のモルモン教の会員についての即興の楽しいビデオのプロフィールを見る。

それが本当に戒めかどうかどうしたら知ることができるか?

人々は時々,教会の方針が本当に神の御心であるのか、どのように知るのだろうかと疑問に思います。わたしたちはいわれることに盲目的に従うのでしょうか。

選択の自由はモルモン教の信条の中の大切な部分です。わたしたちは,父なる神とともに,霊の,前世の生活を営んだ後,この地上での死すべき状態で住むことを選んでやってきたと信じています。この生涯で,直面するチャレンジを受け入れることを選びました。わたしたちは,改宗は自由意志によるものと信じています。しかし,わたしたちはまた情報を与えられたうえで選びをすることを信じています。そのことは、神がわたしたちに何かをするのを求められる時に,なぜなのかをいつも正確に知っているということを意味しません。聖書には、神がしばしばわたしたちがご自分を信頼することだけを望んでいらっしゃると示されています。しかし,神はわたしたちが、戒めが本当かどうかを見いだす方法を与えてこられました。

もちろんその方法は,わたしたちが神を信頼する能力と答えを求めて進んで祈ることを条件にしています。神は聖書(ヤコブ1:5がその例)の中で、もし知恵を求めて神に尋ねるならば,わたしたちにそれを与えて下さると約束なさっています。しかしわたしたちは信仰を持って,揺るがない気持ちで求めなければなりません。モルモン教の会員は若い時にこのやり方を学びます。8歳でバプテスマを受ける前に,子供は神が本当にいらっしゃって,教会が真実であるか神にどのように祈ったらよいのかを学びます。彼らはモルモン教の預言者が本当に神の預言者であるのかを知るための祈り方を学びます。彼らは成長する過程で,実際生涯を通じて,必要に応じて知恵を求めて何度もこのような祈りをするように励まされています。

しかし,時々その預言者が預言者であると本当に信じている時でも,自分が何かで苦しんでいることがあるでしょう。ある戒めが本当でなければいいと望んだり,夜遅くまで遊んでいて目を覚ましている時にコーヒーを飲むことができたりしたらよいのにと望むことがあるかもしれません。たぶん,什分の一のお金を何か必要と思っているもののために,あるいはもっと欲しいと思っているもののために使えたらいいと望むかもしれません。

神にその戒めについて特に祈ることは、完璧にふさわしいことだと見なされます。事実,わたしたちはそのようにするように求められています。モルモン教の会員は最初にそのトピックについて研究するように教えられています。このことの意味は,聖典を読んでそのことについて何と書いてあるかとか,預言者が何を言っているかについて読むことです。わたしたちは戒めを試してみるように勧められています。コーヒーをやめてみたら,依存していたことが終わり,よりよい気持ちになるでしょう。アルコールを飲むのをやめたら,どのように生活が改善出来たか分かるでしょう。什分の一を払ってみて,生活がどのようにうまくいき,神様が自分の心や精神に与えてくれる印象について注意を向けてみましょう。それから決意を下し,それについて祈ってみましょう。神に、自分にどうして欲しいと思っていらっしゃるかを理解するための助けを願いましょう。自分の求めているとおりでなくても、答えを喜んで受け入れましょう。

これを十分頻繁に行うならば,答えを受ける時にそれが「はい」か「いいえ」かの識別が出来ます。わたしは最初にこのような祈り方を学んでいる時,自分にやって来る印象がどのようなものかをたどっていました。わたしが正しいことを祈った時,暖かく,平安で,力強い気持ちが心の中に感じられ,頭に浮かんで来る考えが自分のものではないように思われ,真実の喜びという幸せな気持ち(この世の快楽ではなく)を感じました。わたしは行動に移した結果に気づきました。やがてわたしはこれらの答えが本当のものであることが分かりました。なぜならば,物事がいつも正しく展開していったからです。否定的ないしは混乱したような気持ちは,一般的に,わたしが戻って最初からやり直さなければならないことを意味していました。

ですから,モルモン教は盲目的な信仰に基づいて行動しているのではないのです。神から指示を受けています。人生でそれ以上に安全なガイドが考えられますか?預言者は神の言葉をわたしたちに伝えますが,もし疑いがある時には,わたしたちにはこれらの言葉について確認する特権と責任があるのです。

 

なぜ神はそのようにたくさんの規則を作られるのか?

わたしが旧約聖書を読み,モーセの律法について学ぶ時に,自分がその時代に生きていなかったことをいつも喜びます。それを見るとモルモン教の規則がやさしく思われてきます。それでも,神にはそれらを与える理由があったのです。神は彼らの生活を難しくしようとなさっていただけではありません。彼らは従い,犠牲を払うことを学んでいました。規則の多くはやがて与えられる、イエス・キリストの御業と教えを理解する助けになりました。イエスはモーセの律法を守り,ご自分がそれを負担だと感じているような兆候を決して見せられませんでした。私は、主が完全にそれらの規則を理解していたからだと思います。

モルモン教の預言者トーマス・S・モンソンの顧問であるディーター・F・ウークトドルフは教会の女性たちに教え,それから1年後に同じことを男性たちにも教えました。その教えは,なぜ神がわたしたちに従って欲しいのかを理解する時に,  従うことがもっと容易になるということです。私が前に引用したエズラ・タフト・ベンソンの主張に基づいて語っていました。

福音についての「何」や「どのように」を理解するのは必要ですが,福音の永遠の火と荘厳さは「なぜ」から湧き起こります。わたしたちがなぜ天の父がこの生活の規範を与えられるのかを理解する時,わたしたちが自分たちの生活の根本的な部分にしようと決意する理由を覚えている時,福音はもはや重荷ではなくなり,喜びであり楽しみになります。それは貴重で快いものになります。

地面に目をやって,わたしたちの目の前にある、やらなければならない項目や責任だけを考えながら,弟子としての道を歩かないようにしましょう。わたしたちを取り巻いている栄光に満ちたこの世のものと霊的な景色の美しさを見逃すことがないように歩みましょう。

親愛なる姉妹たち,イエス・キリストの福音の「なぜ」の部分にある荘厳さ,美しさ,気分を浮き立たせるような喜びを探し求めましょう。

従順さの「何」と「どのように」は道を示し,わたしたちが正しい道筋にいられるようにしてくれます。従順さの「なぜ」は、わたしたちの行動を犠牲にし、義務的なものを荘厳なものに変えてくれます。それは従順さの小さな行為を大いなるものに変えて,奉献の聖なる行為にしてくれるのです。(ディエター・F・ウークトドルフ管長,「忘れることなく」,エンサイン,2011年11月)

時々聖典は「なぜ」を与えてくれます。時々「なぜ」はわたしたちには明らかです。時にはわたしたちは従順であることの結果を知るまで待たなければなりません。モルモン教の最初の預言者であるジョセフ・スミスが,モルモン教の健康の規則である「知恵の言葉」を与えた時,多くの人にはそれが奇妙な考えだと思われたでしょう。今日,医者たちはそのような食生活をするように教えています。科学が神様の考えに追いついてきたのです。しかし,教会の書記の時期には,信仰によってそれを受けとめなければなりませんでした。

あらゆる穀類,たくさんの果物と野菜,少量の肉,コーヒー,茶,アルコール,それに煙草など依存症にさせるものを避けることはよい考えでした。

世界が容認する多くのことは,そしてモルモン教がやっているということで多くに人たちがあざけっていることが,本当にすべての常識に反することです。わたしたちが「普通」であるとレッテルを貼っている罪は、幸せより多くの問題を引き起こします。結婚したことのない女性の世界的な指導者が,このこと,自分が純潔のライフスタイルで生活すると決意したことについて述べています。

数年前,わたしは国際政策フォーラムに参加して、売春,ポルノグラフィー,堕胎などのトピックについて議論していました。司会者がわたしにコメントを求めた時,わたしは共通のテーマについて見過ごせないことについて言及しました。つまり,これらの難題には不道徳の問題がその根底にあることです。それで,わたしは両親について,彼らがわたしたちの宗教の熱心な信者であり,わたしに結婚と純潔の大切さについて教えてくれ,それらの教えがわたしの生涯を守ってくれました。そのあとで,女性たちが次々に来て,わたしを脇に寄せて同じことを言いました。「あなたはとても好運です。わたしは純潔が可能であるとも考えたことがありませんでした。そのことを何年も前に教えてくれたらよかったのですが,わたしの人生は変わっていたでしょう。」

わたしは個人的に何万人もの青少年や若い大人たちが道徳的に清い生活をしているのを知っています。

彼らは幸せで,生産的で,活動に積極的に従事しています。道徳的な清さは時代遅れではありません。

確かに,易しいことでもありませんが。しかし,わたしはそうでない生活よりも容易なものであると申し上げます。貞節な男女は決して妊娠や性的な病気に驚かされる心配がありません。決して自分の不貞を告白しなければならないことに苦悶する必要がありません。自分の無分別についての思い出に悩まされることはありません。C・S・ルイスを引用すると,「徳,単に試しにやってみた徳でも,光をもたらし,耽溺することは霧をもたらします。」(シェリー・L・デュー,「徳の力」,チャーチニュース,8月9日)

わたしたちが今日の道徳についての考えによって創り出された問題を見ると,わたしたちは神ご自分が、わたしたちのために規則を作られた時に、その必要をご存知であったことに気づきます。選択には結果がつきまといます。そして,その結果は神からというより生活自体から来ます。人生における貧しい選択の自然な結末なのです。わたしたちの両親は、もし周りを見ないで道路に飛び出せば車にひかれるというような悪い結果に導くような愚かな選択をしないように教えてくれました。神の規則はこのことに大変似ています。たとえ罪が見せかける満足がどのようなものであろうとも,結果を思うとそれをする価値があるとは思えません。

 

モルモン教の規則の中で好きなものはどれか?

非教会員がしばしば言及するわずかな規則についてだけ検討してみましょう。わたしがモルモン教の女性としてわたしの性格に影響しているそれらの規則が好きな点についてお伝えします。モルモン教の会員として考えると,意味が分かり始めます。

安息日と教会での3時間

多くの人たちはモルモン教の会員が安息日を聖なる日にし,進んで毎週3時間も教会に出席するということを知ってショックを受けます。しかし,それが,わたしが一週間待ち望んでいることです。聖書はわたしたちに安息日を聖とするように教えています。それがとても大切なので,神はそれを十戒の一つとして定められ,決して廃止なさいませんでした。モーセの律法の中でさえも,何度も例外を認める形で大切さが強調されています。例えば,安息日には苦しんでいる動物を助けることは認められる例外です。イエスは病人を安息日に癒されました。しかし,神は安息日の戒めを取り上げることはなさいませんでした。わたしたちは安息日を一日中守るべきであって,その理由も賢明です。

一週間の間ずっと,わたしは家族のこと,ボランティアのこと,自営業のことでとても忙しいです。その間、しばしば神に捧げる時間をたくさん取ることが難しく思われます。例えば,今朝,わたしは聖典を読みましたが,仕事をしなければならなかったので,好きなだけ読むことはできませんでした。一週間の間には、やりたくても時間がないためにできない、安息日にふさわしい活動がいくつかあります。

しかし,日曜日は神のためだけにあるのです。神は私たちに6日間を与えてくださり,わたしに必要なことを全てするようにさせてくださり,ただ1日だけを神について過ごすように要求なさいます。神のそのような要求がなければ,わたしはどの日も聖なる日とはしないかもしれません。教会での3時間についてはどうでしょうか?その時間がわたしの一週間のハイライトです!モルモン教は教会に集うことを、神の家を訪ねることのように見なします。その時間は、神とイエス・キリストに注意を向けるのです。わたしたちは聖餐会(聖体拝領)に参加します。神と救いについて学び,聖典を研究したり、子供たちにもそれを教えます。それは世のチャレンジから離れて平安な時です。家事もなく,仕事によって気が散ることもなく,電話もならず。。。。。ただ、わたしとわたしが神や他の信者とともに過ごす時です。

3時間を過ごすと疲れます。小さい子供たちに教えるからですが,霊的にも情緒的にも再新されています。わたしは福音を学び教えることを楽しんできました。聖餐を取るとき,わたしは聖約(約束)を神との間で更新します。家に帰ると,簡単な夕食を作るなどの最低限度の雑用をします。わたしは買い物や観光などはしません。教会のレッスンのために沢山の準備時間があり,聖典を読み,系図(モルモン教はそれは家族の活動と見なします)の作業をします。わたしの子供が若かった頃は,子供ともっと過ごすことができました。今は成人しているので,静かに夫に話しかけ,霊を再び活気づけるようにします。

わたしが月曜日の朝に机に向かう時,わたしは再び元気づけられ,霊的に充電されていて,世界に直面する準備ができています。多くの人たちと違って,私が月曜日が好きなのは、霊的な充電がまだ新しいからです。3時間教会で過ごすことは,自分が愛する人たちを訪れその人たちについて学ぶ時で,全然つらいことではありません。

モルモン教の什分の一

什分の一も,まさに聖書から来ているもう一つの規則です。創世記の14章に出てきますが,そこではアブラハムが什分の一を納めたことが分かります。マラキ3章の中で,什分の一を払わないことがいかに深刻な罪であるかを学びます。

「人は神のものを盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは,あなたの物を盗んでいるのか』と言う。什分の一と,ささげ物をもってである。あなたがたは、のろいをもって、のろわれる。あなたがたすべての国民は,わたしの物を盗んでいるからである。わたしの宮に食物のあるように,什分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み,わたしが天の窓を開いて,あふれる恵みを,あなたがたに注ぐか否かを見なさいと万軍の主は言われる。」(マラキ3:8−10)

ここでは強い言葉が使われています。什分の一を払わないことは神から盗んでいることです。イエスがひとりの未亡人が、自分の持っているレプタ〔少額のお金〕を捧げたのを称賛したのは,神に捧げた彼女の犠牲は、金持ちが有り余るほどの所持金から捧げるより、はるかに大きかったからです。わたしは贖いによってそれは廃止されたというのを聞いたことがあります。(そしてそのように言った人はそうしたくないのかもしれませんが。)しかし,贖いがあるからといって神の御業をするのにお金がかからないというわけではなく,自分の楽しみのためにもっとお金を使うというのは、贖いの目的に合いません。什分の一は依然として戒めです。今日,多くのこの戒めを教えていない教会は運営することが問題になり,慈善活動のためのお金を得ることに苦しんでいます。

わたしの什分の一は、教会の指導者の給料に使われることはありません。そのお金はわたしが集っているような教会堂,神殿,慈善事業,教会のユニットの運営費,宣教師の働き,そしてその他の必須の出費に使われます。自分で貯めておいたことにより得られる利益より,わたしが受ける利益は大きいのです。

マラキはもし什分の一を払えば,天はわたしたちが手に負えない程の祝福を与えてくださると約束しました。これはわたしたちがお金持ちになるという意味ではありません。金銭であるとは一言も述べていません。かつてのモルモンの預言者であったゴードン・B・ヒンクリーは次のように語っています。

さて,わたしの言うことを誤解しないでください。もし正直に什分の一を払うならば,素敵な家,ロールスロイス,それにハワイのコンドミニアムを手に入れる夢が叶うとは言いません。主はわたしたちの必要に応じて天の窓を開いてくださるのであり,わたしたちのどん欲を満たしてくださるというのではありません。もし裕福になるために什分の一を払うとしたら,それのような動機は正しくありません。什分の一の基本的な目的は,教会が主の御業を進めていくための手段となることです。献金者への祝福は補助的な配当金です。そして,その祝福は必ずしも財政的あるいは物質的な利益ではありません。(ゴードン・B・ヒンクリー大管長,「什分の一:わたしたちの忠実さを証明する機会」,エンサイン,1982年5月)

安息日を守ることに似て,什分の一は神への愛の贈り物です。モルモン教の会員たちは,わたしたちに何もかも与えてくださる神へお返しすることを求められることを、負担に感じないように努力しています。わたしたちはそれが神のお金であると考え,神の祝福なしではそれを手にすることすらできないことを認識します。その理由で,わたしたちは神が要求なさる小さな額をお返しすることを喜んでします。その額とは収入の10%にあたる什分の一,特別な基金のための献金やささげ物,その中には貧しい人の世話をするものも含まれています。

モルモン教の健康の規範

もうモルモン教の健康の規範については既に知っているかもしれません。わたしたちはそれを「知恵の言葉」と呼んでいます。まさしくその通りだからです。取ってはならないもの(アルコール,煙草,娯楽用の薬物,コーヒー,茶)と、また大抵の人は気づいていないかもしれませんが、した方が良いもの(肉を控えめに取る,あらゆる穀物を食べる,新鮮な果物や野菜を取る,十分な休息を取る)もあります。前に触れたように,これらのことは今日においては常識的なガイドラインになっています。しかし,1800年代においては少し異例の内容でした。今日わたしたちは煙草が,いかに害があるかについて知っています。薬物やアルコールの乱用により起こる悲劇を目撃します。コーヒーが依存症を引き起こすことを知っています。

祖母が喫煙に関連した病気で死んでいくのを目にし,家族の者(わたしの先祖の系図の数種類の系統にこの問題が絡んでいる)にアルコール依存症の影響を見ながら大きくなって,わたしにはこれらの規則に合わせるのは容易のように思われました。わたしは17歳の時にモルモン教に入りましたが,煙草やアルコールには一度も興味を持ちませんでした。わたしはその危険について見てきましたし,依存症の傾向が遺伝されていることを知っていました。多くの人たちがコーヒーに依存症になるのを見て,わたしは一度も好きにならなかったことをありがたく思います。

知恵の言葉に従って生きる最も容易な方法は,最初からこれらの物を一切取らないようにすることです。もし一日を過ごすために依存している物に頼らなければならなければ、神が計画された生活を過ごすことができません。子供たちに教える時に,自分の力に頼って生きることがはるかに素晴らしいことであることを理解出来るように助けようと一生懸命試みています。

これらの例は,人々がモルモン教の規則について話すことのほんのわずかな例です。他のものもありますが,それらも皆同様に私が安全に暮らせるように助けるように考案されているものです。あるいはわたしが自分に与えられている神とイエス・キリストの愛の賜物に対して,わたしがどれほど感謝しているかを表現する能力をより大きくさせてくれるものです。

 

 

モルモン教の規則:重荷か祝福か?わたしはクリスチャンとして,それらの規則は祝福であって,神がわたしを愛して下さっていることを知るもう一つの方法です。神は私が安全で,いつも神が期待されていることに答えることができ続けるように、最善を尽くすのを助けてくださいます。

 

 

 

著者:テリー・リン・ビトナー

 

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